国吉校下の歴史を探訪する会を開催しています。

2019年度

2018年度

2017年度

2017年9月10日 
 国吉地区の環境保健衛生協議会・歩こう会と里山活性化協議会合同での「西山のお寺と歴史を探訪する会と酪農体験」
で7、.5キロを歩きました。

2016年9月11日
 今回は国吉の「笹八口・五十辺・江道・境」神社を探訪しました。歩いた距離は約6kmでした。山川さんの説明を聞きながら秋の西山の散策でした。昼におにぎりと豚汁をいただきました。午後から山川さんの講演を聞きました。 

2015年9月20日
 国吉健康推進懇話会と合同の歴史探訪部会の西山の神社を探訪する会を開催しました。 今回は国吉の神社4箇所、6.2kmを廻りました。昼食におにぎり、豚汁をいただいた後、高森信英さんに「珍しい神社」と題して講演していただきました。

2014年9月21日 
 歴史探訪部会・歩こう会合同「神社巡り」を開催しました。今回は、「東大寺開田須加野庄」「細池神明社」「岩坪白山社」「頭川頭川神社」を歩きながら探訪し、国吉食改の方に作っていただいたおにぎりと豚汁を昼食にいただきました。食事後高森信英氏の講演会をおこないました。

2013年10月13日
 歴史を探訪する会と自然講演会を行いました。 

山根道
 古代から中世にかけて、倶利伽羅峠を越えて、坂本(小矢部市埴生付近)→川人(赤丸付近)→日理(伏木)の道は、小矢部川の氾濫に巻き込まれること
のない安全な道でした。「山根道」と呼ばれ、近世中期以後に小矢部川右岸を通る北陸街道ができるまで、越中の主要幹線道路でした。前田利長の時代には、金沢と守山城を結ぶ連絡路でもありました。柴野→笹八口→月野谷→手洗野→岩坪を経由するこの道は、現在は柴野の八幡社から豆本木材の工
場までの道が中断されているようですが、歴史の古い名所旧跡古社寺だけでなく、伝説の残る場所も至るところに見られます。

-見多気神社の高麗狗伝説ー
むかし、答野島の中島庄官さんの家に、賤しい身なりの男がきて宿を乞うた。そして、「今こそ落ちぶれてはいるが、かつては鎌倉で大仏師といわれた男だ」と語った。庄官さんは、お宮の高麗狗を彫らせることにしたが、この男一ヶ月あまりたっても仕事に取りかかる様子もない。毎日酒ばかりくらっている。さすがの庄官さんもあきれて追い出そうと考えた。ところがどうしたことか、男は突然お宮にこもって仕事をはじめた。一心不乱、物の怪に取り憑かれたような仕事ぶりで、たちまち一対の高麗狗を彫り上げ、そのまま飄然と立ち去ってしまった。間もなく、お宮付近の田畑が夜な夜な二匹の狗に荒らされるようになった。弓の上手が選ばれ、一夜この狗に矢を射かけた。たしかな手応えがあったが、狗の姿は闇に消えてしまった。村人たちが血の跡をたどっていくと、なんとお宮の高麗狗の喉元に、まぎれもなく昨夜の矢が突き刺さっていた。以後、田畑を荒らす狗を見た者はいない。

-七駄片馬の伝説ー
つつじ公園一帯を笹八口の男樸(おやどん)と呼び、水道タンクのある高台には、その昔、篠八口砦があって、五十辺との間の山を今も殿様山と云っている。「おやどん」の奥は、「する谷」と呼んでいる。昔、ある真夜中に、千万長者がこの「する谷」へ千両箱を馬につけて入っていった。馬は、千両箱を左右に積んだのが七頭と、片方だけに積んだのが一頭。合計十五個の千両箱であるが、これを谷のどこかへ埋めて、その目印に「みつばうつぎ」の木を植えていったという噂が広がった。村人は、「みつばうつぎ」の木を一生懸命探したが見つからない。千両箱は今もこの谷の土中に、深く眠っているのかもしれない。

-塩売石の伝説ー
昔、能登の志雄の町から、塩売り商人が馬に塩をつけて、ここらあたりに売りにきていた。この商人は塩の中に白い砂を混ぜて売っていた。そんな悪いことをしていたため、神の怒りにふれ岩にされてしまったという。岩は、人間が塩をはかる枡を持っているような格好をしており、この部分を沿道の県道沿いへ切り出し、日露戦没記念碑としている。白山池横にあるのはその残りの部分である。尚、牛石も三十メートル位南側の山裾にあったというが、今では土中に
埋もれ、掘り出す人もいない。

 2012年9月30日 歴史探訪会を行いました。

ー龍梅伝説ー  信光寺・白山池
 今から五百年ほど前、小矢部川が手洗野の里を流れていました。その深淵には雌龍が住んでいました。また、五十辺の白山池には雄龍が住んでいて、この二匹は夫婦として、鍾乳洞を通じて行き来していました。ある日、赤丸城主・中山国松が、五十辺の山中へ狩りに出かけました。そこで、身の丈60m
もの大蛇となって山を巡っていた雄龍に出くわし、驚いてこれを弓矢で射殺したのです。それ以来、殿様は原因不明の病気になり、ついに亡くなってしまい
ました。 その頃、国上寺信光寺の住職・梅山和尚は、夜の明ける前からお経をあげるのを日課としていました。そこへ、いつからともなく一人の美しい女
の人がお堂の外にたたずんでそっと手を合わせる姿が見られるようになりました。和尚が訳を尋ねると、実は龍の妻であり、「罪もない夫が殺されたため、
私は龍の身でありながら赤丸の城主をのろい殺してしまいました。罪を悔いて、夫と共に往生したい。」と泣いて救いを求めました。和尚は、この龍女を哀れに思い、仏門に入るために、後日本当の姿になって来るように論しました。約束の日になると、ものすごい暴風雨と共にあられまでも降り注ぎ、黒雲が辺りを覆う中、一匹の巨大な龍が禅堂に巻き付いていました。和尚は、怖れもせず、仏・法・僧に帰依するための三気戒を授け、仏様の弟子になったことを示す血脈をこの龍の耳にかけてやると、龍女は喜びの涙を流して、いずこともなく飛び去りました。
 後日、龍女は人の姿となってお寺にやってきて、何かお礼がしたいと言いました。和尚がこの寺は水の便が悪く困っていると言うと、龍女は、「お寺の境内にある人の肌のような木の根元を掘ると、水が湧くでしょう」と答え、さらに二個の梅の実を置いて去りました。数日後、白山池の淵で、先に死んだ夫の死骸に折り重なるようにして死んでいる妻の龍を、村人は見つけました。
 龍女に教えられたとおり、境内のサルスベリの木の根元を掘ると、清らかな水があふれ、村の人は大いに助かりました。また、龍女の残した梅の実は、やがて芽を出し、枝を伸ばし、立派な紅梅・白梅の花を咲かせ、長い間村人の目を楽しませました。
 それから、二百年後の夏、紅梅は枯れてしまいました。当時の住職・密宗和尚は、その木で二体の観音像を彫って、龍の夫婦の追善供養を行いました。
信光寺では、今でも観音像や井戸の跡が大切に残されています。また、白山池の周辺の鍾乳石は、夫婦の龍の骨が化したものと言われています。さらに、
信光寺の池にご飯をよそう飯がいを落とすと、信光寺の井戸にまで流れ着いたと言われ、白山池と信光寺の井戸はつながっているとも言われています。

2011年10月23日 西山の歴史を探訪する会を開催しました。(千手観音、江道横穴古墳、塩売り石、見多気神社の狛犬、信光寺の龍梅観音)